【起業物語2】ドラマ助監督からドキュメンタリーディレクターへ

起業ストーリー2
ずーみー
前回のあらすじ】兵庫県芦屋市で割と過保護に育てられたずーみー。親の敷いたレール通りに生きるのが嫌で、逃げるように東京の大学に進学。そこで出会った映画製作に衝撃を受ける。ダブルスクールで夜間の映像専門学校を卒業したずーみーは、、、

ドラマ助監督として冒険の世界へ

専門学校を卒業した僕は、フリーランスの助監督としてテレビドラマの現場で働き始めた。そこで待ち受けていたのは、子供の頃から待ち望んでいた「冒険の世界」だった。

毎朝5時半に新宿スバルビル前に集合し、ロケバスに乗って冒険の旅へと出かけた。ポパイの朝食弁当を食べてロケ地に到着すると、テレビで見たことのある芸能人たちと一緒に夜遅くまで撮影した。目の前で、キムタクや安達祐実や竹中直人が演技する日々。単調で退屈な学校生活とは違い、1日として同じ日はなかった。毎日が刺激と興奮の連続だった。

だが、楽しいことばかりだったわけではない。

僕が入ったテレビの世界は、学歴の関係ない、厳しい実力主義の世界だ。中卒や高卒の先輩たちもたくさんいた。その中で、僕の「早稲田卒」という学歴はかえって悪目立ちした。

僕はもともと運動神経が悪く、不器用で要領も悪い。だから、瞬発力や頭の回転の速さが問われる現場系の仕事は苦手だった。僕はよくロケ現場でミスをして先輩から馬鹿にされた。中には、「ワセダのくせに」と言って、露骨に攻撃してくる人もいた。そういう心無い先輩に負けないために、僕は必死で頑張った。

自分に何か才能があるとしたら、それは「人よりも努力できる能力」だと思う。一刻も早くテレビの世界で認めてもらうために、僕は睡眠時間を削って誰よりもたくさん働いた。

助監督時代のずーみー

助監督時代の貴重な一枚。座って演技する永作博美さんに毛布を持って来たところ。

恩師との出会い

そんな僕のことを評価してくれる人物が現れた。

Tさんという監督だ。

Tさんは、僕の父親くらいの年齢で、白髪にクリッとした目が特徴の快活なおじさんだ。日本人なら誰もが知っている連続ドラマをいくつも監督し、赤坂で小さなドラマ制作会社を経営していた。普段は優しいが、怒るとヤクザのように怖い。

Tさんの監督するドラマで僕が助監督をしたことがきっかけで、僕はTさんの会社で見習いとして雇われることになった。月給は15万円だった。

毎晩のように、Tさんは僕を飲みに連れて行ってくれた。赤坂の居酒屋や中野のキャバクラで、僕とTさんはいつも明け方まで飲んだくれた。Tさんは30歳近く年上なのに、僕と友達のように接してくれた。

Tさんには2つの口癖があった。

ひとつ目は、「企画書を書け」。Tさんが過去30年間のテレビ業界でのし上がって来れたのは、寝る間を惜しんで企画書を書き、知り合いのプロデューサーに提出しまくったおかげだそうだ。100本中1本でも当たればめっけもん、というのがTさんの考え方だった。Tさんに影響されて、半人前の助監督だった僕も、いつか監督デビューするために企画を温めるようになった。

ふたつ目は、「一番になれ」。Tさんは酔っぱらうと、僕の手を強く握り、「一番になれ」と熱く語った。Tさんは実力あるドラマ監督だったが、業界には実力では劣るのにTさんより有名な監督がたくさんいた。そういう人たちに負けたことが、Tさんはたぶん悔しかったのだ。

僕のテレビ業界での成功を、Tさんは本気で考えてくれているようだった。その期待に応えるために、僕はますます努力した。

 

ドキュメンタリーディレクターに昇格

それからしばらくして、僕は派遣ディレクターとしてある会社で働けることになった。Tさんが僕のことを紹介してくれたのだ。20代のうちに助監督からディレクターに昇格できるとは思っていなかったので、僕は驚き、とても喜んだ。

新米ディレクターの僕に任された仕事は、深夜放送の音楽ドキュメンタリー番組を撮影・編集することだった。僕の人生の中で、最も忙しい日々が始まった。

毎日重たいビデオカメラをたずさえて、都内のライブハウスや地方の音楽イベントを取材した。取材相手は、売り出し中のアイドルや実力派ロックバンド、弾き語りのシンガーソングライター、ヘヴィメタ姉ちゃん、クラブDJ、レゲエのおっさん、色物お笑い企画ユニットなど多岐にわたった。

僕は自分で撮影した玉石混交の映像を会社に持ち帰り、パソコンですぐさま編集した。低予算のためスタッフの人手が足りず、いつも締め切りギリギリで作業した。徹夜の連続で、ほとんど家には帰れなかった。仕事のきつさに耐えかねて、アルバイトのADはしょっちゅう辞めていった。

だが、僕はその状況をあまり辛いとは思わなかった。むしろ、楽しんでいた。千本ノックのように毎日撮影・編集しているうちに、だんだんドキュメンタリー制作の虜になっていったからだ。とりとめのない現実を映像で切り取り、編集で一本筋が通ったストーリーへと昇華することに、僕は生きがいとやりがいを感じ始めていた。

私生活でも変化があった。死ぬほど忙しい仕事の合間をぬって、僕は3歳年下の女性と結婚した。あまりに僕が忙しすぎたので、結婚式の準備や段取りはほとんどすべて妻がやってくれた。まったくいい人をお嫁にもらったものだ。新郎側の挨拶はTさんが引き受けてくれた。

結婚式から1年後、我が家に待望の長男が生まれた。

僕の人生は、まさに順風満帆に見えた。

 

Tさんとのすれ違い

その一方で、うまくいかないと思うこともあった。
Tさんとの間に、だんだんすれ違いを感じるようになっていたのだ。

僕がディレクターになってからというものの、Tさんは時々派遣先に様子を見に来てくれた。最初は僕もそれが嬉しかったのだが、ドキュメンタリーが面白くなるにつれて、不敬にも僕はTさんの存在をうざったく思い始めていた。

Tさんの口癖に耳が痛かったからかもしれない。彼は来るたびに「ドラマの企画書を出せ」と言ってきた。企画書の重要性は僕もよく理解していた。だが、ドキュメンタリーに夢中な僕にはそれを書く余裕なんて全くなかった。だから、僕はいつも適当に生返事するしかなかった。そんな僕の態度の変化を感じたのだろう。Tさんが僕の会社を訪れる回数はだんだん少なくなっていった。

僕は、ドラマの企画書を書けないことを申し訳ないと思いつつ、その代わりに派遣先で大量の短編ドキュメンタリーを作った。その数は2年間で200本を超えた。作品の出来栄えに感動したアーティストやそのファンたちから感謝されることも多かった。それが快感で、僕はますますドキュメンタリー制作の魅力にはまっていった。

そんなある日のこと、僕は久しぶりにTさんから呼び出しを受けた。

呑気に喫茶店へ出かけた僕を待っていたのは、突然の解雇通告だった。

【第3回へと続く】

【起業物語3】なぜ僕は会社をクビになってしまったのか?

2017.05.23
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ABOUTブログ運営者

映像制作ZOOMY VIDEO代表。テレビ制作会社をクビになったのをきっかけに、2年前にデジカメ1台で起業。当ブログでは、自分が起業で苦労・失敗した経験をもとに、知識0のサラリーマンが1年以内に月収50万以上稼ぐ起業家になる方法を発信中。