【起業物語2】ドラマ助監督からドキュメンタリーディレクターへ

起業ストーリー2

(※この記事は2017年12月2日に更新されました) 

前回のあらすじ
兵庫県芦屋市で過保護な少年時代を過ごしたずーみー。

親の敷いたレール通りに生きるのがイヤで、逃げるように東京の大学に進学。

そこで出会った映画製作に衝撃を受ける。

夜間の映像専門学校を卒業したずーみーは、、、

【起業物語1】なぜ僕はテレビ業界に入ったのか?

2017.05.14

ドラマ助監督として冒険の世界へ

専門学校を卒業した僕は、フリーランスの助監督としてテレビドラマの現場で働き始めた。

そこで待ち受けていたのは、子供の頃から待ち望んでいた「冒険の世界」だった。

毎朝5時半に新宿スバルビル前に集合し、ロケバスに乗って冒険の旅へと出かけた。

ポパイの朝食弁当を食べてロケ地に到着すると、テレビで見たことのある芸能人たちと一緒に夜遅くまでドラマを撮影した。

目の前で、キムタクや安達祐実や竹中直人が演技する日々。

単調で退屈な学校生活とは違い、1日として同じ日はなかった。

毎日が刺激と興奮の連続だった。

 

だが、楽しいことばかりだったわけではない。

僕が入ったテレビの世界は、学歴の関係ない、厳しい実力主義の世界だ。

中卒や高卒の先輩たちもたくさんいた。

その中で、僕の「早稲田卒」という学歴はかえって悪目立ちした。

僕はもともと運動神経が悪く、不器用で要領も悪い。

だから、瞬発力や頭の回転の速さが問われる現場系の仕事は苦手だった。

僕はよくロケ現場でミスをして先輩から馬鹿にされた。

中には、「ワセダのくせに」と言って、露骨に攻撃してくる人もいた。

そういう心無い先輩に負けないために、僕は必死で頑張った。

 

自分に何か才能があるとしたら、それは「人よりも努力できる能力」だと思う。

一刻も早くテレビの世界で認めてもらうために、僕は睡眠時間を削って誰よりもたくさん働いた。

助監督時代のずーみー

助監督時代の貴重な一枚。座って演技する永作博美さんに毛布を持って来たところ。

 

恩師との出会い

そんな僕のことを評価してくれる人物が現れた。

Tさんという監督だ。

Tさんは、僕の父親くらいの年齢で、白髪にクリッとした目が特徴の快活なおじさんだ。

日本人なら誰もが知っている連続ドラマをいくつも監督し、赤坂で小さなドラマ制作会社を経営していた。

普段は優しいが、怒るとヤクザのように怖い。

Tさんの監督するドラマで僕が助監督をしたことがきっかけで、僕はTさんの会社で見習いとして雇われることになった。

月給は15万円だった。

毎晩のように、Tさんは僕を飲みに連れて行ってくれた。

赤坂の居酒屋や中野のキャバクラで、僕とTさんはいつも明け方まで飲んだくれた。

Tさんは30歳近く年上なのに、僕と友達のように接してくれた。

 

Tさんには2つの口癖があった。

ひとつ目は、「企画書を書け」

Tさんが過去30年間のテレビ業界でのし上がって来れたのは、寝る間を惜しんで企画書を書き、知り合いのプロデューサーに提出しまくったおかげだそうだ。

100本中1本でも当たればめっけもん、というのがTさんの考え方だった。

Tさんに影響されて、半人前の助監督だった僕も、いつか監督デビューするために自分の企画を温めるようになった。

ふたつ目は、「一番になれ」

Tさんは酔っぱらうと、僕の手を強く握り、「一番になれ」と熱く語った。

Tさんは実力あるドラマ監督だったが、業界には実力では劣るのにTさんより有名な監督がたくさんいた。

そういう人たちに負けたことが、Tさんはたぶん悔しかったのだ。

僕のテレビ業界での成功を、Tさんは本気で考えてくれているようだった。

その期待に応えるために、僕はますます努力した。

 

ドキュメンタリーディレクターに昇格

それからしばらくして、僕は派遣ディレクターとしてある会社で働けることになった。

Tさんが僕のことを紹介してくれたのだ。

20代のうちに助監督からディレクターに昇格できるとは思っていなかったので、僕は驚き、とても喜んだ。

新米ディレクターの僕に任された仕事は、深夜放送の音楽ドキュメンタリー番組を撮影・編集することだった。

僕の人生の中で、最も忙しい日々が始まった。

 

毎日重たいビデオカメラをたずさえて、都内のライブハウスや地方の音楽イベントを取材した。

取材相手は、売り出し中のアイドルや実力派ロックバンド、弾き語りのシンガーソングライター、ヘヴィメタ姉ちゃん、クラブDJ、レゲエのおっさん、色物お笑い企画ユニットなど多岐にわたった。

僕は自分で撮影した玉石混交の映像を会社に持ち帰り、パソコンですぐさま編集した。

低予算のためスタッフの人手が足りず、いつも締め切りギリギリで作業した。

徹夜の連続で、ほとんど家には帰れなかった。

仕事のきつさに耐えかねて、アルバイトのADはしょっちゅう辞めていった。

だが、僕はその状況をあまり辛いとは思わなかった。

むしろ、楽しんでいた。

千本ノックのように毎日撮影・編集しているうちに、だんだんドキュメンタリー制作の虜になっていったからだ。

とりとめのない現実を映像で切り取り、編集で一本筋が通ったストーリーへと昇華することに、僕は生きがいとやりがいを感じ始めていた。

 

私生活でも変化があった。

死ぬほど忙しい仕事の合間をぬって、僕は3歳年下の女性と結婚した。

あまりに僕が忙しすぎたので、結婚式の準備や段取りはほとんどすべて妻がやってくれた。

まったくいい人をお嫁にもらったものだ。

新郎側の挨拶はTさんが引き受けてくれた。

 

結婚式から1年後、我が家に待望の長男が生まれた。

僕の人生は、まさに順風満帆に見えた。

 

Tさんとのすれ違い

その一方で、うまくいかないと思うこともあった。

Tさんとの間に、だんだんすれ違いを感じるようになっていたのだ。

僕がディレクターになってからというものの、Tさんは時々派遣先に様子を見に来てくれた。

最初は僕もそれが嬉しかったのだが、ドキュメンタリーが面白くなるにつれて、不敬にも僕はTさんの存在をうざったく感じ始めていた。

Tさんの口癖に耳が痛かったからかもしれない。

彼は来るたびに「ドラマの企画書を出せ」と言ってきた。

企画書の重要性は僕もよく理解していた。

だが、ドキュメンタリーに夢中な僕にはそれを書く余裕なんて全くなかった。

だから、僕はいつも適当に生返事するしかなかった。

そんな僕の態度の変化を感じたのだろう。

Tさんが僕の会社を訪れる回数はだんだん少なくなっていった。

僕は、ドラマの企画書を書けないことを申し訳ないと思いつつ、その代わりに派遣先で大量の短編ドキュメンタリーを作った。

その数は2年間で200本を超えた。

作品の出来栄えに感動したアーティストやそのファンたちから感謝されることも多かった。

それが快感で、僕はますますドキュメンタリー制作の魅力にはまっていった。

 

そんなある日のこと、僕は久しぶりにTさんから呼び出しを受けた。

呑気に喫茶店へ出かけた僕を待っていたのは、突然の解雇通告だった。

 

【第3回へと続く】

【起業物語3】なぜ僕は会社をクビになってしまったのか?

2017.05.23

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