【起業物語2】ドラマ助監督からドキュメンタリーディレクターへ

【起業物語】ドラマ助監督として冒険の世界へ
前回のあらすじ
関西で受験勉強漬けの少年時代を過ごした僕(=ずーみー)は、テストの点数で人とくらべられることが大嫌いだった。

「テストの点数よりも大事なものがある」と僕は直感していたのだ。

受験戦争を勝ち抜き、東京の大学に進学した僕は、映画製作に出会い、衝撃を受けた。

映画監督になるため、夜間の映像専門学校を卒業した僕は・・・

【起業物語1】なぜ僕はテレビ業界に入ったのか?

【起業物語1】なぜ僕はテレビ業界に入ったのか?

2017-05-14

ドラマ助監督として冒険の世界へ

映像専門学校を卒業した僕は、フリーランスの助監督として、テレビドラマの現場で働き始めた。

そこで待ち受けていたのは、僕が子供のころから待ち望んでいた「冒険の世界」だった。

毎朝5時半に新宿スバルビル前に集合し、ロケバスに乗り込んで冒険の旅へと出発した。

ロケバス内で、テレビ業界では有名な「ポパイ」という業者が作る朝食弁当を急いで食べると、ロケ地に到着する。

ロケ地には、テレビで見たことのある芸能人たちが、次から次へとやってきた。

そして、芸能人と一緒に、都内のロケ場所を移動しながら、毎日終電近くまで撮影するのだ。

目の前で、キムタクや安達祐実や竹中直人らが演技する日々。

単調で退屈な学校生活とは違い、1日として同じ日はなかった。

毎日が刺激と興奮の連続だった。

 

だが、楽しいことばかりだったわけではない。

僕が入ったテレビの世界は、学歴の関係ない、実力主義の厳しい世界だ。

中卒や高卒の先輩もたくさんいた。

そういう人たちの中で、僕の「早稲田卒」という学歴は、かなり悪目立ちした。

僕はもともと運動神経が悪く、不器用で要領も悪い。

だから、瞬発力や頭の回転の速さが問われる現場系の仕事は苦手だった。

僕はよくロケ現場でミスをして、先輩たちから馬鹿にされた。

「早稲田のくせに」と言って、露骨に攻撃してくる人もいた。

そういう心無い先輩に負けないために、僕は必死で頑張った。

 

僕は、自分に何か才能があるとしたら、それは「人よりも努力できる能力」だと思う。

一刻も早くテレビの世界で認めてもらうために、僕は睡眠時間を削って誰よりもたくさん働いた。

助監督時代のずーみー

助監督時代の貴重な一枚。座って演技する永作博美さんに毛布を持って来たところ。

 

恩師との出会い

僕が助監督になって3年くらいたったころ、僕のことを評価してくれる人物が現れた。

Tさんというテレビドラマ監督だ。

Tさんは、僕の父親くらいの年齢で、白髪にクリッとした目が特徴の快活なおじさんだ。

日本人なら誰もが知っている連続ドラマをいくつも監督し、赤坂で小さなドラマ制作会社を経営していた。

普段は優しいが、怒るとヤクザのように怖い。

Tさんの監督するドラマで僕が助監督をしたことがきっかけで、僕はTさんの会社で見習いとして雇われることになった。

月給は15万円だった。

Tさんは、毎晩のように、僕を飲みに連れて行ってくれた。

Tさんは30歳近く年上なのに、僕と友達のように接してくれた。

赤坂の居酒屋や中野のキャバクラで、僕とTさんはいつも明け方まで飲んだくれた。

 

そんなTさんには、2つの口癖があった。

ひとつ目は、「企画書を書け」

Tさんが過去30年間のテレビ業界でのし上がって来れたのは、寝る間を惜しんで企画書を書き、知り合いのプロデューサーに提出しまくったおかげらしい。

100本中1本でも当たればめっけもん、というのがTさんの考え方だった。

Tさんに影響されて、半人前の助監督だった僕も、いつか監督デビューするために自分の企画を温めるようになった。

ふたつ目は、「一番になれ」

Tさんは酔っぱらうと、いつも僕の手を強く握り、「一番になれ」と熱く語った。

Tさんは実力あるドラマ監督だったが、実力では劣るのにTさんよりも有名な監督が、業界にはたくさんいた。

そういう人たちに負けたことが、たぶんTさんは悔しかったのだ。

僕のテレビ業界での成功を、Tさんは本気で考えてくれているようだった。

その期待に応えるために、僕はますます努力した。

 

ドキュメンタリーディレクターに昇格

それからしばらくして、僕は派遣ディレクターとして、ある会社で働けることになった。

Tさんが、その会社に僕のことを紹介してくれたのだ。

20代のうちに助監督からディレクターに昇格できるとは思っていなかったので、僕は驚き、とても喜んだ。

新米ディレクターの僕に任された仕事は、深夜放送の音楽ドキュメンタリー番組を撮影・編集することだった。

僕の人生の中で、最も忙しい日々が始まった。

 

毎日重たいビデオカメラを携えて、都内のライブハウスや地方の音楽イベントを取材した。

取材相手は、売り出し中のアイドルや実力派ロックバンド、弾き語りのシンガーソングライター、ヘヴィメタ姉ちゃん、クラブDJ、レゲエのおっさん、色物お笑い企画ユニットなど多岐に渡った。

僕は自分で撮影した玉石混交の映像を会社に持ち帰り、パソコンですぐさま編集した。

低予算のためスタッフの人手が足りず、いつも締め切りギリギリで作業した。

徹夜の連続で、ほとんど家に帰れなかった。

仕事のきつさに耐えかねて、アルバイトのADはしょっちゅう辞めていった。

だが、僕はその状況をあまり辛いとは思わなかった。

むしろ、楽しんでいた。

千本ノックのように毎日撮影・編集しているうちに、僕はだんだんドキュメンタリー制作の虜になっていった。

とりとめのない現実を映像で切り取り、編集で一本筋が通ったストーリーを作り上げることに、僕は生きがいとやりがいを感じ始めていた。

 

私生活でも変化があった。

死ぬほど忙しい仕事の合間をぬって、僕は3歳年下の女性と結婚した。

あまりに僕が忙しすぎたので、結婚式の準備や段取りはほとんどすべて妻がやってくれた。

まったくいい人をお嫁にもらったものだ。

新郎側の挨拶はTさんが引き受けてくれた。

 

結婚式から1年後、我が家に待望の長男が生まれた。

僕の人生は、まさに順風満帆に見えた。

 

Tさんとのすれ違い

その一方で、うまくいかないと思うこともあった。

Tさんとの間に、だんだんすれ違いを感じるようになっていたのだ。

Tさんは時々、僕の派遣先に様子を見に来てくれた。

最初は僕もそれが嬉しかったのだが、ドキュメンタリーが面白くなるにつれて、不敬にも僕はTさんの存在をうざったく感じ始めていた。

Tさんの口癖に耳が痛かったからかもしれない。

Tさんは来るたびに「ドラマの企画書を出せ」と言ってきた。

企画書の重要性は、僕もよく理解していた。

だが、ドキュメンタリーに夢中な僕には、それを書く余裕なんて全くなかった。

だから、僕はいつも適当に生返事するしかなかった。

そんな僕の態度の変化を感じたのだろう。

Tさんが僕の会社を訪れる回数は、だんだん少なくなっていった。

僕は、ドラマの企画書を書けないことを申し訳ないと思いつつ、その代わりに派遣先で大量の短編ドキュメンタリーを作った。

その数は2年間で200本を超えた。

作品の出来栄えに感動したアーティストやそのファンたちから感謝されることも多かった。

それが快感で、僕はますますドキュメンタリー制作の魅力にはまっていった。

 

そんなある日のこと、僕は久しぶりにTさんから呼び出しを受けた。

呑気に待ち合わせ場所へ出かけた僕を待っていたのは、突然の解雇通告だった。

 

【第3回へと続く】

【起業物語】なぜ僕は会社をクビになってしまったのか?

【起業物語3】なぜ僕は会社をクビになってしまったのか?

2017-05-23

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